パラオのペリリュー①

66年前に日米の将兵2万人以上が死んだり傷ついたりした島を訪ねました。 20100624-IMG_0323s.jpg
ペリリュー島「オレンジビーチ」
 1944年9月15日、米軍が上陸を始めた海岸。、赤道に近い島々はどこもそうであるように、沖にはリーフがあります。
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500もの自然の洞窟があったと言われ、その多くが日本軍の陣地になったが、中には掘られた洞窟陣地もあった。ここは島内最大級の洞窟陣地で、千人洞窟と呼ばれていた。かなり奥が深く入り組んだ構造になっている。壁に黒い部分があるのは火炎放射器で攻撃されたためだという。

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当時のビンらしい。ガイドさんは火炎瓶だと言っていた。

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ペリリュー島は南北に約9キロ、東西が約3キロの島。やはり多くの人が戦争して死傷した硫黄島とほぼ同じくらいの大きさ。現在の人口は約500人。これは港近くのメインストリート。訪れた日は大雨で、コロール島近くの港を出た小さなモーターボートもしばしば視界を失うほど。リーフ内だから波はなかったが、50キロを走っていくのはコワかった。

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メインストリートをうかがうようにして銃眼があった。

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日本軍だけでも1万人以上が戦死した。島の人たちの墓地の一画には慰霊碑が。

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この島で戦死した人の遺族には、昭和19年12月31日戦死という連絡が来た。実際には、11月下旬に司令官が自決。その時点で、すでに少数の将兵しか生き残ってはいなかった。

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ペリリューで戦死したお父さんと、戦後を生き抜き今年亡くなったお母さんの位牌を持って日本から供養に来られたご夫妻。この島の陸軍中核部隊は、茨城県水戸出身者を中心とした部隊で、群馬県高崎出身者を中心にした部隊の一部が加わっていた。ご夫妻のお父さんは高崎15連隊、米軍が上陸して来た島の南端近くに陣地があり、戦闘初期に孤立して全滅。

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銘板には突かれたような跡が。

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どこのだれが被っていた鉄帽だろう。弾が貫通していったのか、あるいは66年間の自然の営みが穴を開けたか。

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高崎の第15連隊が守備範囲としていた所にあるトーチカ跡。海岸近くにあり、上陸してくる米軍を撃つための銃眼が五ヶ所くらいにあった。

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銃眼は厚い鉄板で隠せるようになっていた。しかし、米軍はこの海岸に上陸しては来なかったので正面からの攻撃は受けず、ほぼ当時のままの姿で残っている。。ガイドさんの説明では、ここには連隊本部が置かれていたと言う。

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日本軍は、上陸したばかりで急ごしらえの陣地の中にいる米軍をその日のうちに攻撃して全滅させようと、後方から戦車17両を含む歩兵部隊を出撃させた。しかし、その部隊は日本海軍がつくった広大な飛行場の中を突撃することになり、待ち構えていた米軍にことごとく撃破された。これは砲塔を吹き飛ばされた日本軍戦車。

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別の場所にあった米軍の水陸両用戦車。

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日本海軍本部があった建物。暑いところだから風通しをよくするために壁をつくらなかったわけではないだろう。攻撃されて、すべて破壊されたのだと思う。

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これだけ爆弾や砲弾でボコボコに穴を開けられた建物は、これまで見たことがない。よくまだ建っているなと思う。柱を多くして丈夫につくってあるのだろうか。

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これは砲弾が開けた穴だろう。

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風呂に入れたのは将官クラスだけか。かなり深い湯船だ。

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ここは2階のテラス。かっては広い飛行場が目の前に見えたはずで、将官たちが戦闘機や爆撃機の離発着を眺めたこともあっただろう。今見えるのは一面のジャングルだけだ。

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飛行場には、ちょうど「4」に似た形で滑走路がつくられていたが、今も残っているのはこの滑走路だけ。トラック、サイパン、マリアナ沖海戦などを戦う中で、日本海軍は毎回100機単位で航空機を喪失していた。この飛行場も激しい爆撃で、ほとんど無力化されていた。戦後はセスナ機の定期便がパラオ本島から飛んでいたこともあったが、今はない。

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飛行場は一本の滑走路を残して、あとはすべてジャングルにもどった。これはゼロ戦だった機体の一部、だという。操縦席周辺が残っているだけで、エンジンはなかった。戦後、外国から金属を回収する業者がやってきて、主だったものは持ち去ったそうだ。日本海軍がつくったペリリュー飛行場は米軍が使うようになり、まだ日本軍が占領していたフィリッピンを攻撃する爆撃機や戦闘機の基地となった。

2010年06月25日:GeneralSalaku

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