パラオのペリリュー③

34人の日本兵が戦後1年半の間、隠れていた洞窟は今もありました。 20100628-IMG_0279s.jpg  

道路の脇に、小さな看板が立っていた。このジャングルの中に、その洞窟がある。


20100628-IMG_0285s.jpg  

左側に見えるのは池だ。米軍の爆撃と艦砲射撃でジャングルはほとんど焼けてしまい、当時は木がまばらに残っているだけだったという。こんな湿地に日本兵が潜んでいるとは米兵も思わず、発見されなかった。

20100628-IMG_0287s.jpg  

足元はゴツゴツした石灰石、おまけに雨が降っていたのですべりやすく、とても歩きにくかった。洞窟の入り口は道路から数十メートル入ったところにあった。

20100628-IMG_0288s.jpg  

幅1メートルくらい、上下は50センチもないくらいだ。石と草で覆えば、近くまで来ても見落としてしまうだろう。足元に気をつけながら、後ろ向きでないと入れなかった。

20100628-IMG_0291s.jpg  

中に入ってみると幅は数メートルしかないが、奥行きは15メートルくらいありそうだった。ここもゴツゴツした岩だらけで、板でも敷かないことには横にもなれない。昭和22年4月に投降した日本兵は陸軍22人と海軍12人。全部がここに住んでいたのではなく、近くの洞窟にも分散していたらしい。

陸軍の少尉が隊長となり、持久作戦部隊と称して米軍の物資集積所から食糧や武器を盗ってきて食いつないでいた。いつかは友軍の反撃があるから、それまでは戦争をやめるわけにはいかないと思いこんでいたが、どうも様子がおかしいと考える人も中にはいた。

20100629-IMG_0290s.jpg
洞窟入り口近くには食器などが

昭和22年、パパイヤを採りに行って米軍や住民に見つかり、彼らの存在が知られた。この洞窟は発見されずにいたが、付近で投降勧告が行われた。1人だけいた将校と下士官たちは情報作戦だと信じなかったが、福岡県出身の海軍上等水兵・土田さんが確かめて来ようと洞窟を離れた。仲間に見つかれば殺されるので、一人でこっそり離れたという。このあたりのくわしい様子は、土田さん自身が話す映像が再びYou Tubeにあるので、関心のある人はご覧ください。福岡のお国言葉でイキイキと語っている。

20100629-IMG_0002_1s.jpg
「太平洋戦争写真史」より
 

トラック島で海軍参謀をしていた澄川少将という人が戦犯裁判の関係でグアム島にいて、米軍の要請で投降勧告に来たが彼らは出てこなかった。日本の家族から送ってもらった手紙を洞窟の前で読み上げ、ようやく敗戦をわからせた。この写真は、昭和22年4月22日に洞窟から出て投降した直後の日本兵。服装はバラバラだが、つま先を90度に開き、手の指先を伸ばす軍隊式気をつけの姿勢は忘れていない。25歳から39歳まで、平均年齢28歳の青年たちだ。

20100630-IMG_0006s.jpg
「太平洋戦争写真史」より
 

投降者中ただ1人の将校だった陸軍少尉(27歳)が、降伏の証として日章旗と軍刀を米軍司令官に手渡す。その左でニコニコしている人は通訳。左端は米軍司令官の大佐だが、日本軍式のお辞儀に戸惑っているような表情に見える。その右の海軍軍帽を被っている人が澄川少将。第4艦隊参謀長だった人で、戦争中は超が付くエリートの立場にあった。やや硬い表情で見守っているが、胸の中にあったのはどんな思いだったのだろうか。

敗戦を信ぜず洞窟に暮らしていた青年たちは、いまだに皇軍兵士のままである。かたや自分は敗軍の将として戦犯裁判の検事側証人(つまり米軍側)をするためにグアム島にいた。それも、トラック島で軍医たちがおこなった米兵捕虜生体解剖をめぐる裁判である。このあとの写真で、少将は顔を伏せている。

この投降の様子を写した一連の写真は、「太平洋戦争写真史 徹底抗戦 ペリリュー・アンガウルの玉砕」(昭和56年)に掲載されていて、全部で19枚ある。米軍のカメラマンが撮影したのだろうが、いずれもよく撮れている。この本は図書館で借りてきたが、発行が月刊沖縄社となっていて最初はなぜ沖縄の出版社がと思った。調べているうちに、パラオに戦争中住んでいた民間人のうち80%は沖縄出身者だったことがわかった。戦争中は軍が五千人以上の民間人を現地召集したから犠牲者も多く、それだけに沖縄でのパラオへの関心が高かったのではないだろうか。パラオでは今でもサータアンダギーという沖縄の揚げ菓子が売られていて、そんなところにも沖縄との密な関係を感じさせる。

20100701-IMG_0127s.jpg  

これはパラオの中心部に近いアラカベサンという島だ。海岸の洞窟をよく見てもらうと大砲がある。大砲の砲身が向いている方向にはパラオで最も有名なホテルのプライベートビーチがある。当時の日本軍は、ペリリューの次はパラオ本島周辺への米軍侵攻を予想していて、上陸地点となりそうな海岸には陣地を構築した。米軍は爆撃は何回もしたが、結局上陸攻撃はしなかった。

敗戦時、本島周辺には約2万5千人の日本軍が残っていた。戦争中の日本軍死者は約5千人だが、その80%は栄養失調による死であったという。米軍はパラオの前にサイパンやグアムを攻撃したので、パラオの日本軍の戦争準備は比較的うまくいった方だというが、それにしてもこんな状態だった。

20100701-IMG_0237s.jpg  

パラオでの日本軍死者約1万7千人は、そのあとのフィリピンでの約50万人とくらべれば少ない。ほとんどが餓死したニューギニアでの15万人以上という数字とくらべても少ない。しかし、今生きているわたしたち日本人がフィリピンでおきたことを知っているかと言えばそうでもない。実はフィリピンでは住民の死者約112万人という数字も加わる。

 

きれいな海、緑の島、そんなイメージだけで訪れる人の多いパラオ。人口2万人、アメリカの自由連邦ということになっているが一つの国である。アメリカとの関係で問題はあるが、非核憲法を持っている国だ。ここで暮らす人々にとっては、戦争が忘れられない記憶となっているのではないだろうか。

熱帯での植物繁茂のスピードはすごく速い。焼け野原でも数年もすればジャングルと化す。しかし、木々の下や洞窟の中で果てた人々を忘れ去ることはできない。

2010年06月29日:GeneralSalaku

Comments

Salakuさん:2010年08月16日

 65年目の終戦の日を迎えました。「まだまだ戦える」と軍が敗北を認めないので、負けてはいないがこれで戦争を終わります、辛抱してください、というのが「終戦の日」となった理由だと考えています。
 戦争体験者を除けば、あまりにも日本人は戦争のことを知らない。意図的に「先の大戦」のことを教えられずに来たと思えます。経済優先の発想です。
 ところが、韓国、中国、フィリピン、そしてパラオでも戦争中に何がおきたか若い人たちに教えています。笑顔で接してくれても彼らは知っています。
 戦後賠償は「完全かつ最終的に解決された」と日本政府は言うが、そのわりには今でもあちこちから怨嗟の声が沸き起こる。ペリリューでは不発弾のせいで畑もつくれない状態が続いている。その不発弾処理をしているのはイギリスのNGO という実態。
 日本人はサムライという言葉を持ち出して世界に冠たる精神の持ち主と自画自賛する。そういう面も確かにあるが、かなり商人的根性をもあわせ持つ民族であることを自覚したほうがいい、そんなことをこのごろ思います。

Add coments